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特集

【八木澤壯一さん特別講義後編】世界の火葬化と「弔い」の変化(前共立女子大学教授・東京電機大学名誉教授 八木澤壯一)

【八木澤壯一さん特別講義後編】世界の火葬化と「弔い」の変化(前共立女子大学教授・東京電機大学名誉教授 八木澤壯一)

火葬場と向き合い50年以上。火葬場をテーマにした論文で日本建築学会賞を受賞、実際の火葬場の建築にも広く携わってきた八木澤壯一さん。 2023年3月10日に東京博善 代々幡斎場にてご講演いただいた内容をまとめました。世界の火葬の歴史・変遷から、火葬場とはどんなものなのか、どういう風に扱われてきたのかについて、お話いただきました。最後のお別れの場である火葬場ができることは何なのか、ぜひご一読ください。

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こちらの記事は後編です。前編はこちらからご覧いただけます。

日本の火葬場

骨壺

日本の火葬の始まり

ここからは日本そのものの話をしたいと思うんです。公式な情報では、日本は奈良時代から火葬を導入したとされています。道昭さんという遣唐使が、仏教の方法で政治をするには火葬するのが一番だと説いたそうです。そしてその提案を受けたのが持統天皇という女性の天皇でした。桓武天皇が旦那さんなんですけども、その人の前方後円墳があるんです。持統天皇は、自分はそのお墓には入らずに火葬するんだと言って、実際に火葬されました。ですから、やっぱり男よりも女の方が決断がいいんだと思いますね。そこから、天皇家は持統天皇以降は火葬をやるんですけども、時々乱れるため統計によると、50%火葬で、50%土葬です。京都に火葬するお寺がありますから、そこで天皇家は火葬していますね。

江戸時代の火葬

こういう流れで火葬が随分普及したんですけども、江戸時代になるとキリスト教対策で仏教を大事にしようということで、江戸政府は、死んだ後の後始末を全部お寺さんに頼むということをやったんですね。これを受けて各地で火葬場ができました。

日本古来の火葬のイラスト

こんな絵があります。これは明治始めの頃にイギリス人が来て、日本の葬式は面白いからっていうので画家を雇って描かせたものです。絵に描かれている内容は本当かどうか非常に怪しいんですが、これを見ると、4本柱がありますね。あの4本柱が相撲の土俵と同じなんですね。火葬する場を聖なる場所として非常に大事にしたことがよく分かります。
そしてお坊さんがお経を読んでいますね。

日本古来の収骨のイラスト

翌日の朝になると女の人だけで骨上げしています。また、白い幕で覆って死んだ時には違う空間を作るという習慣が昔からあったということです。

明治以降の火葬

明治になると政府は、神道による葬祭を積極的に普及させようとします。これは火葬場にとっては悲しいんですが、火葬は仏教の葬法だから止めようというので、火葬禁止令が出されます。しかし2年間しか持たず、明治8年に再開しています。しかし、火葬は許可制をとっていて、消極的に再開しています。また、東京の市街化区域や税金がかかる場所は許可しないという風に、基準は厳しいものでした。また、伝染病対策として火葬を認めましたので、伝染病で亡くなった人は必ず焼くこと、伝染病の毒がまわらないように煙突を作ることなどの取締規則を作ります。そしてその際のお金は自分たちで賄うことという規則までついています。

また、遺骨を火葬した場所に埋めてはいけないという規則も作ります。これが墓地と火葬場を切り離す理屈になり、後に火葬場取締規則になります。この取締規則は戦後、「墓地、埋葬等に関する法律」と名前を変えて、現在も存在しています。

伝染病の流行

明治の後半になってコレラが大流行したことを受けて、政府は感染者専用の避病院という隔離病舎だけの病院をつくります。そしてそこで看取るわけですが、政府はその病院の管理を地方自治体に任せます。現在、世の中にたくさんある市立病院のもとはここにあるんですね。

避病院ですから、位置としては町外れの誰も行かないようなところにつくります。そしてそこで亡くなった人は、すぐ隣で火葬して弔いました。
それまでは、江戸では火葬が普及していたのですが、地方はまだまだ土葬が主流でした。そういう土葬の地域でも人口が多い場所では市立病院ができますから、その隣に火葬場ができる、といった経緯で全国に火葬場ができていったんです。隣で火葬できると簡単ですから、徐々に火葬の良い面が分かって火葬場が増えていく、このようにして日本の火葬率が高くなりました。

なぜ東京には民営の火葬場があるのか

国は明治22年に東京の都市計画をつくりました。このときに墓地と火葬場を全て買収して、市営となったはずなんですが、実際は港湾と道路をつくるので精一杯で、予算がなくなり、民間で管理できているから、火葬場と墓地はいいやっていうので逃げたんですね。その結果、東京は民間企業の東京博善が残るっていう、そういう背景になっています。ですから、東京だけ特殊で、地方に行ったら火葬場は全て公営です。地方は市民病院の隔離病舎の遺体処理のために火葬場を作ったんで、そこは市がやらざるを得なかったんですね。

八木澤教授が携わった火葬場

木

浄土真宗系の地域は、親鸞さんの影響で、江戸時代から火葬しています。その地域を調べてみると、当時から火葬場は「焼くこと」とは別の目的をもっていたということが分かりました。
当時の地図を見ると、集落ごとに火葬場が存在していて、大きな集落になると複数あったりします。火葬場を毛嫌いしていれば、数を少なくしてまとめると思うのですが、そういうわけではないんですね。大抵、集落の墓地の中に火葬場をつくっていて、当番で行っていたので決して嫌な仕事ではない。地図でその場所を見ると、「葬礼場」って書いてあります。「葬礼をする場所」ですから、葬儀の最後の場所であり、それをみんなで行っていた。決して焼くだけの場所ではなかったということがよく分かりました。

香川県三木町「しずかの里」

私としても葬礼場のような火葬場が必要だと思っていた時に、香川県三木町の町長 石原収さんから依頼がありました。なぜ私に声がかかったのかというと、当時、みのもんたの番組で、大学教授の研究テーマを取り上げている深夜番組がありました。その番組を偶然町長さんが見て、「火葬を考えている人がいるんだ」っていうので、声がかかりました。

その三木町の火葬場は借地でやっていたため、借地の期限切れで追い立てを受けていたんですね。研究室に訪ねて来られて「何とかしてください」と。1年ぐらい経ったらまた呼び出しの電話があって、「用地の目途が立ったから来てほしい」というので、喜んで行きました。
この地域は讃岐富士という、小さい富士山がたくさんあるところで、三木町にも白山という山がありました。白山を見ていたら、ふるさとでお別れができる場所をつくりたいという思いが出てきて、つくったのがこの火葬場です。

湖と山

この火葬場をつくる際に、こだわった事がもう一つあります。
明治以降の火葬場は、遺体を処理する場所ですから、釜をざっと並べて一斉に燃やしていました。その状況をよく観察すると、真ん中の燃え具合が一番いいんです。実際に遺体を置く場所を皆さんに聞いても中央が一番希望されるんです。そういう記録を付けていきますと「ああ、皆さんの希望はやっぱり大事にしなきゃいけないな」と思うようになって、「それじゃあ釜を個別化すればいいんだ」というようなことを考えて、独立した釜を設置しました。

始めは、火葬場が見えないようにしなさいという行政指導があったんですが、それをやめて池の向こう側に火葬場が見えるような設計に変えることができました。

次に、この火葬場の位置づけをどうしようかというのを考えたんですが、火葬場から町の方をみたら、白山と町が見えますので、これはシャバの象徴だと。一方で、反対側の徳島側を見ると、山の中ですからあの世の象徴ですね。その二つの結界のところに火葬場があるんです。

柱

じゃあ三途の川でも作ろうかというので作りました。写真の右の方に、砂利が引いてあります。本当は川を作りたかったんですが、水で作るとメンテナンス費用がかかります。火葬場はそんなにメンテナンスに手間も費用もかけられないから、たいてい干上がっちゃうんですね。それだったら枯山水の三途の川を作ります、というようなことで作りました。

駐車場と車

こんな風に火葬場から町の方を見たら白山です。この景色を最後に見ると今までの生活が思い出される、という風にしました。

火葬炉前

室内は、火葬炉の両側に2つ個別室を作りました。左側の壁に火葬炉がありまして、火葬が終わったら扉が開いてこの部屋で収骨するという。ご遺体を火葬炉にいれて、同じところから出てくるというのが納得できますので、僕は収骨の部屋を別にするというのはあまりしないですね。入ったところに出して、その場所で収骨をすると、そういう風にしています。
そして、僕が作ると必ずお別れの場所には、外の景色が見えるようにしています。密室で作るのはどうも合わないんじゃないかなと思っていまして。

滋賀県近江八幡市「さざなみ浄苑」

続いて、近江八幡市から、火葬場をつくるのに委員会を設置するからその委員長をやってくれないかという話があり、担当することになりました。この時の市長 川端五兵衛さんが非常に素晴らしい人で、「死に甲斐のある町を作りたい」と。死に甲斐があるとは、この町によく住んだということが分かるような町だということで、そんな火葬場を目指しました。

建物と田んぼ

そして、近江八幡市の雰囲気に調和するこんな火葬場をつくりました。委員会には、火葬場の隣の農家の人も参加していましたので、最初は「塀を作ってくれ」と言われたんですが、建築が進んでいくうちに「塀は不要なんじゃないか」という感じになって最終的にはこのような景観になりました。

ホール

近江八幡市には、商家や神社がたくさん残っていますので、その雰囲気も火葬場に取り入れました。これが特別ホールです。右側の板壁に炉の扉を作りました。

広島県三次市「悠久の森」

近江八幡市の火葬場の建設では、市民の人たちと一緒に考えてつくったんですが、広島県の三次市も是非やりたいということでお話がきました。もともと三次市には、浄土真宗の関係で火葬場が集落ごとにたくさんありました。それが町村合併をしたことで統合されたんですが、管理はあまりうまくいってなかったそうです。そこで市民の代表をたくさん入れて考えようということになりました。

建物

そして、このような火葬場ができました。この火葬場は、見送・収骨ホール、火葬炉、待合室が一組になっていて、それぞれ3つ個別に配置しています。火葬場の個別化を徹底して設計しました。

新潟県燕市の火葬場

私は新潟の弥彦山の近くで生まれました。燕市は火葬場とごみ処理場が隣接しているのですが、火葬場を改築したいという話がありました。燕市には、弥彦山という奈良時代から有名な一の宮の山がありますので、火葬場の中からは、ごみ処理場は見えず、弥彦山だけが見えるような形で設計しようということになりました。

室内からの景色

窓の向こう側に見えるのが弥彦山です。弥彦山がちょうど見えるように窓を大きくしました。

愛される火葬場とは

芝生

最後に、火葬場がいかに愛されているかという事例を紹介します。ストックホルムに、世界遺産に登録されている火葬場があります。建築の世界でも非常に有名な建物です。
ストックホルムは、岩ですから森がほんとはないんです。ヨーロッパは意外と森があるように思えるんですが、実は人工林なんですね。写真を見ると、真ん中に各火葬場があって、その手前に十字架があります。そして右側が火葬した人の墓です。

芝生と建物

この写真の右側には大きいホールがあって、左側に小さいホールが2つあります。ここを含め、ヨーロッパの火葬場はほとんど個別化されています。

ホール

これがその大ホールで、ミサを行い、お別れをします。中央付近の周りが空いているのは、生花で飾るためです。
壁面には絵が描いてありますね。よく見ると臨死体験の絵とよく似ているんですね。上から眺められているとか、誰かに会ったとかね。こういった部分は、教会のつくり方とほぼ同じです。
そして中央の低い石には棺を置きます。

土葬の棺

左側に中華料理のスプーンみたいなのありますね。ヨーロッパの火葬場は土葬の改良なので、土葬でやっていることと同じことを火葬でもやります。ここに棺を置いてこの砂を上からかけます。かけ終わるとエレベーターで棺だけが地下へ沈み、葬儀は終了します。

棺が保管されている

地下には作業室があって、炉室もあります。地下には、炉に入るのを待っている棺がたくさんあります。大ホールではなく他のチャペルでお別れをしても、最終的にはここに集めて火葬します。

粉骨された骨

火葬が終わると、写真のように粗みじんに砕いて、これをパッキングして郵送で送り返すんだとスタッフが言っていました。その残りの骨はどうするかというと、山のどこかに埋めて、その位置は公表しないんですね。ちなみに他の町に行くと、地図を渡して「ここに埋まっています」というのをやることが多いです。ただ自治体によっては、山自体を合葬山だという風に考えて、お参りは山の手前でやりなさい、としています。ストックホルムは、大体40~50%くらいが山に納めています。だからここだけではなく、世界的に見ても墓そのものがなくなってきています。
こんなことが長年やってきた結論です。

芝生と木

八木澤壯一教授 プロフィール

人物

前共立女子大学教授・東京電機大学名誉教授。火葬場に関する研究・調査と、その建築計画・設計の実務に携わり、実際に多くの建築を手掛けてきている。また、建築物に限らず「葬送」に関する多くの著作を残してきており、「葬送・火葬」に関する研究と実務を系統的に建築計画の一分野として確立した。

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