【デヴィ夫人特別インタビュー02】変わることのない、きらめく存在として
9月10日、デヴィ・スカルノさんの生前葬イベントが東京都江東区の有明GYM-EXで開催されました。本イベントは、終活産業に関する展示会「エンディング産業展」(主催:東京博善株式会社)のプログラムの一環として行われました。
イベントは、デヴィ夫人のAIによる挨拶で幕を開け、フランスの作曲家モーリス・ラヴェル作曲「ボレロ」に合わせて、棺の中に入ったデヴィ夫人が運び込まれる演出で始まりました。特注の棺から姿を現した夫人に、神田うのさんとはるな愛さんが弔辞を捧げました。
最後は本人による挨拶で、「人間には一つだけ自分で選べないものがあります。それは名前です。また、自分では見ることのできないものもあります。それは自分のお葬式です」と語りました。さらに、「人生で最も大切なのは、自分自身で目標や目的、使命感を持つことです。そして努力、努力、努力です。どんな夢も叶えることができます。夢はただ見るものではなく、つかみ取るものなのです」と力強く語りかけました。
イベント後のインタビューでは、生前葬の感想や自身の終活に対する考えを語ってくれました。
夢はつかむもの
——弔辞を読んだ神田うのさんとはるな愛さんが感銘を受けた、デヴィ夫人の行動力とは、どのようなものでしょうか?
私は社交家であり、慈善家であり、行動家です。その原動力は怒りです。それは小学生の頃から変わっていません。
学校の先生は、すべての生徒を平等に、公平に、分け隔てなく接するものだと信じていました。しかし裕福な生徒にすり寄る姿を目にし、先生という存在に落胆し、大きな失望を覚えました。それから学校に対して、そして世間に対して、不条理を感じるようになったのです。
その経験こそが、私の行動力の原点になったのだと思います。こんな世の中であってはならない、と。
——夫人の挨拶に「夢は見るものではなく、つかむもの」という言葉がありました。その言葉の意味を聞かせてください。
努力もなしに、夢はつかめません。小さな例ですが、ある中学生の女の子が授業で「デヴィ夫人に会う」という夢を語ったそうです。先生や友人たちは笑ったといいます。ところが彼女は、スマートフォンを使って、SNSなどで私と一緒に写っている人たちに次々と連絡を取ったそうです。
3年後、私の親しい友人から「デヴィ夫人に会いたいと言っている子がいる」と聞かされました。そして、ついに彼女は私と会うという夢を叶えたのです。それ以来、彼女を気にかけるようになりました。
今では東京の大学に通っています。通学に数時間かかると聞いたので、私の別宅から通えるよう、彼女に住む場所を提供しました。彼女のように、どんなに小さなことでも、努力次第で夢はかなうのです。
星々のように、きらめく存在として
——終活は始めていますか?
断捨離がなかなかできなくて、困っています。どれも思い入れがあり、愛着があって、何を手放すべきか選ぶだけでも時間がかかってしまいます。手紙なども、つい取っておいてしまう性分で……。でも、いつかは始めなければいけないと感じています。
私の理想は、ただ処分するのではなく、きちんと貯蔵し、ミュージアムのような形で残すことです。とはいえ、個人のミュージアムを建てても、数十年も経てば私のことを知らない世代が増え、いずれは閉館してしまうでしょう。しかし私の歩んだ歴史を、これまでに集めてきた絵画や彫刻、骨董品、宝石などとともに展示することができれば、時代が変わっても訪れてくださる方がいるのではないかと考えています。
——夫人は5年前に展覧会を開催されています。そのときはどのような構成だったのでしょうか?
「傘寿記念 デヴィ・スカルノ展 ―わたくしが歩んだ80年―」という展覧会を開催しました。70年代のオートクチュールのドレス、インドネシアの民族衣装、スカルノ大統領から贈られた手紙、私が集めてきた美術品や骨董品、さらには私が描いた絵画まで、多岐にわたる展示品を通して、私の人生そのものを感じていただけたのではないかと思います。
時が経っても、こうした品々への人々の関心は失われないと実感しました。だからこそ、これらを一つのかたちにまとめ、後世に残せるような空間をいつか作りたいと、心から願っています。
——思い出の品を残すことに、どのような意味を感じていますか?
私はずっと、「いずれ有名になったら、必ず自叙伝を残そう」と心に決めていました。そのとき、記憶だけに頼るのではなく、証となるものを手元に残しておきたいと考え、幼少期にかわした手紙や新聞記事の切り抜き、通信簿や送別時にいただいた寄せ書きなどを、大切に保管してきたのです。気がつけば、茶箱5箱分にもなっていました。それらも展覧会のためにすべて開封して展示いたしました。
私が幼少期に書いた手紙や絵、戦後間もなく東京に戻ってきたときの記憶なども紹介しました。終戦直後、東京の夜空には、満天の星が広がっていたのを覚えています。今はもう、空を見上げても、あのような星空を見ることはできません。でも、あのときの記憶は、変わることのない歴史の一部として、いつかきちんと残したいと思いました。あの星々のように、きらめく存在として。
故人との思い出を慈しむ
——『ひとたび』を読んでくれた方にメッセージをお願いします。
生きることは苦しみの連続です。この世に生を受けた以上、私たちは生き抜かなければならない。だからこそ、悲しみに包まれたときは、自分より深い悲しみを抱えている人々のことを思い浮かべてほしいのです。
肉親を失う悲しみは計り知れません。しかし、世の中にはそれ以上の悲しみに沈んでいる人も数多く存在します。ガザの人々のように、人間としての尊厳さえ奪われている状況を目の当たりにすると、飢えや病に苦しみ、やせ細っていく子どもや抱いて泣く親の姿に胸が締めつけられます。
「自分の悲しみがこの世で一番つらい」と思うのではなく、世界には自分よりももっとつらい思いをしている人が必ずいる。そのように人々を思いやりながらも、大切な方を亡くしたとき、その方との思い出を慈しむこと。それが本当の供養になるはずです。
【プロフィール】
デヴィ・スカルノ
国際文化人。東京都出身。インドネシア元大統領夫人で、1970年に政変後パリへ亡命。社交界で「東洋の真珠」と称される。1990年に渡米し、国連環境計画の特別顧問として活動。現在は日本を拠点に「デヴィ夫人」として親しまれ、華やかな経歴と独特の存在感でテレビなどでも活躍。国際的な基盤を活かし、一般財団法人アース・エイド・ソサエティを設立し、地球規模で慈善活動を行っている。