【竹中直人さん特別インタビュー】「ま…いいか…」と言える最期
俳優、映画監督として多彩な活動を続ける竹中直人さん。 今回は、創作の原点や新劇への憧れ、印象的な出会い、そして自身が思い描く最期について語ってくれました。
新劇への憧れと映画の世界
——これまでの人生を振り返り、印象に残る世代はありますか?
全ての世代が印象に残っていますけれど…10代は楽しかったですね。夢がいっぱいあったかな。その頃は漫画家になりたくて、漫画の模写ばかりを描いていました。フォークシンガーをめざしたこともありました。藝大を受けましたが一次試験の木炭デッサンで不合格、そして二浪目で多摩美に受かったんです。懐かしい思い出です。
自分の受験番号をなぜか久保直樹って友人に教えていたようで、合否を見に上野毛の多摩美に向かっていると、久保が前から歩いてきて、「竹中、お前の番号あったぞ」って。「え〜?!自分で見つけたかったのにー!!」って言ったのを覚えています(笑)。遠い遠い昔の思い出。
——多摩美では、どのような活動に取り組んでいましたか?
グラフィックデザイン科だったんですが、映画のことばかり考えていましたね。映像演出研究会というクラブに入って8ミリ映画を作っていました。フィルム代や現像代が高いから25分くらいのショートムービーですが、シナリオ作り、ロケハン、キャスティング、カット割り、とても楽しい作業でした。もう50年も昔の物語。
研究会の友人たちは、誰も欲がないというか、出来上がった作品を学園祭で上映するだけで、コンペに出そうってやつが誰ひとりいなかった。発展的な意識を持ってないというか。「はい!撮ったら終わり!」みたいな、そのノリがなんだか好きでしたね。欲がないというか、向上心がないというか(笑)。美大にいながら多くの人たちに作品を見てもらおうという意識が全くなかった。今思うと映画を作っている時間が1番豊かな時間で、出来上がってしまうともう全て終わりになっちゃう。その寂しさがたまらなかった。そんな感じかな。
その頃から、映画の世界、新劇の世界に憧れをもつようになりました。10代の頃から「自分ではない人間になりたい」と思っていたこともあると思います。とにかく【自分】で生きる事が恥ずかしかった。多摩美の4年生のとき、まわりが就職活動をしていく中、ぼくは俳優を目指しました。
洋物はやらないという青年座に入団しました。日本人のくせに「オフィーリア!」とか言うのがとても恥ずかしくて。日本人なら「しげる!」とか「つねよー!」でしょ?それなら照れずに言えますよね(笑)。でも、ベルトルト・ブレヒトの『三文オペラ』はやりました。若い頃からクルト・ヴァイルの音楽がずっと好きだったんです。まさか自分がジョナサン・ピーチャムの役をやるとは思ってもみなかった。その時は全く照れませんでした。
——コメディアンとしても活躍されましたね。
新劇だけを目指しても生活できないですからね。自分はものまねが得意だったから、多摩美時代の友人が「ぎんざNOW」という素人参加番組に勝手に応募したんです。そしたらオーディションに受かっちゃって。そして番組に出てみると!5週連続で勝ち抜いてしまった。信じられないことです。まだ20歳の時です。
優勝しても賞金は出ないのですが、時計をもらえるんです。立派な時計でね。その時計を友人に売って、お金にしていました(笑)。懐かしい。当時は1万2000円の家賃を払うのも大変でしたから。でもその頃は芸能界に入ろうなんて一切考えてなかったですね。
——ものまねだと、ブルース・リーが好きだとお聞きしました。
『燃えよドラゴン』を初めて観たときの衝撃はいまだ心に残っています。あの身体のライン、あの表情、あの髪型は尋常じゃなかった。オープニングのシーンのブルースの身体がものすごく細くてね。サモ・ハン・キンポーを相手に戦うんですが、風になびくあの髪、あの眼差しがもう圧倒的で、「アタッ!」っていう声がとてつもない衝撃でした。当時、ぼくは18歳。何度も何度も劇場に観に行ってモノマネしていました。
テレビで最初にブルース・リーのモノマネをしたのは絶対にぼくだと思います。みんなブルース・リーのモノマネをするときに「アチョー!」って言うのですが、それがすごく嫌でね。「アタッ!」なんです!いやぁ、本当に大好きでしたね。
——その後、映画監督としての活動も始められました。
30代は映画を2本監督しました。つげ義春さんの『無能の人』(91)と、火事が起こらない消防署を描いた『119』(94)という映画。40代から50代にかけては、いろんな映画を監督しました。34歳のときには、岩松了(劇作家)さんと「竹中直人の会」を立ち上げて、それ以来舞台はずっと続けていますね。ぼくは岩松さんの描く世界が大好きで、岩松さんのもとで舞台を続けていけたのはかけがえのない時間です。岩松さんとの出会いはとても大きかったですね。
39歳から40歳には、大河ドラマ『秀吉』で豊臣秀吉を演じました。大河ドラマの主役なんてまさかと思いましたね。50代にも大河ドラマ『軍師官兵衛』で、没落していく秀吉を演じさせて頂きました。なんだかんだ振り返ってみると、いろいろやっていますね。
思い出があるからこそ別れはつらい
——これまでの人生で特別な出会いを教えてください。
映画に絞るなら石井隆監督や周防正行監督、新藤兼人監督、五社英雄監督、岡本喜八監督との出会いは特別でした。特に五社さんには可愛がっていただきました。五社さんは、ぼくのことを〝アニキさん〟と呼ぶんです。よく留守電にこんな言葉が入っていました。「アニキさん、五社だよ。アニキさん、元気か? 落ち込んでないか?」。まだ携帯がない時代です。その優しい声が今もこころに残っています。
五社監督の『薄化粧』(85)という作品に出演して以来、監督はちょこちょこぼくを監督作品に呼んで下さいました。『吉原炎上』(87)の時、「アニキさんの役は台本にないけどね。東映の反対を押し切って、アニキさんのシーンを作ったからね」と言われて。でも、その役がバイオリン弾きで、「ぼく、バイオリン弾けないですよ!」って言ったら、「適当でいいですよー。適当で」って。最高の監督でした。
——五社監督との思い出について聞かせてください。
五社さんから「アニキさんね、ぼくね、喉にワニの骨が挟まっちゃったんだ」と留守電が入っていたことがありました。「ワニの骨を取ってくれる医者がね、オーストラリアにしかいないからね、そこにしばらく行っちゃうからね。アニキさんごめんよ」って。そのことを萩原健一さんに伝えたら、「竹中さん、そんなの嘘に決まってんだろ。がんだよ!がん!」と言われて。ああ…そうか…って。闘病を隠すために、そんなことを言ったんですね。ぼくはその話を信じていました。好きな人はみんないなくなってしまいます。たくさんの思い出があるから、その人が死んでしまうのはとてもつらいです。
寄り添った父との最期
——竹中さんにとって、印象的な別れを教えてください。
父が94歳の夏に、体調が悪いと言って初めて入院しました。退院したら介護が始まると思い、介護の方たちと打ち合わせも済ませていましたが、必要がなくなってしまいました。
父が亡くなるのはどこかで覚悟していました。病院の先生にもそう言われていたし、父も終活はしていたので。自分の家も全部きれいに片付けてありました。ダンボール一つひとつに丁寧にまとめて。その中にファイルがあって、見るとぼくの新聞や雑誌の切り抜きがいっぱい。こんなに丁寧に切り抜いてとってくれていたんだ…と驚きました。
日を追うごとに、父が弱っているのがわかりました。ぼくはその頃、舞台稽古中で、稽古の終わりには必ず父の病院に通っていました。頭、肩、背中、腕、ふくらはぎ、足の裏、父の体をいっぱい揉みましたよ。こんなに父の身体に触れたことなんてなかったです。「あぁ〜気持ちいい…」という父が、なんと自分自身に見えて…。いつか自分もこうなるんだなって。まるで自分自身を揉んでるような感覚にとらわれた瞬間がありました。
——お父さまとの最期はどのように過ごしましたか?
亡くなる2日前に、「直人、なにか歌ってくれ」と言うので、父が昔、聴いていそうな歌をいろいろ歌ったんですが、どの歌を歌っても「その歌じゃない」「ちがう、ちがう」って。本当に何曲も歌ったんですよ。そして最後にこれじゃないよな…と思いつつ「貴方はもう忘れたかしら〜」と歌ったら「それだ、それだ」って。
『神田川』だったんです。「お母さんとの歌なんだ」と言って、むせび泣いていました。「直人のお母さんと生活し始めた頃の歌なんだ…」と言っていました。この歌が流行った時代とは全く違いますが…。
父の葬儀は家族のみで静かに行いました。埋葬は遺言通り海洋散骨にしました。父は借金も遺産もなく、部屋も自分で全て片付けて、なに一つぼくに迷惑をかけずこの世を去りました。子孝行の父でした。
——ご自身の最期はどのように考えていますか?
どんな死に方をするんだろうなとはよく考えます。ぼくの大好きな石井隆監督が、村木哲郎という男を主人公に脚本を書くのですが、その村木がよくつぶやく言葉で「ま、いいか…」ってセリフがあるんです。ぼくの最期も、そんなことをつぶやいて死ねたらいいな…。でも、そんな理想通りには死ねないでしょうね。
プロフィール
竹中直人(たけなか・なおと)
俳優。映画監督。コメディアン。歌手。神奈川県出身。
劇団青年座時代の1983年、テレビ朝日の『ザ・テレビ演芸』でデビューし、コメディアンとして注目を集める。
その後、俳優としても活動の幅を広げ、1996年にはNHK大河ドラマ『秀吉』で主演を務め、高い評価を得る。
映画監督としても『無能の人』などの作品で国内外から高い評価を受けている。