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【竹中直人さん特別インタビュー】日々を生きるしかない

【竹中直人さん特別インタビュー】日々を生きるしかない

俳優・映画監督として活躍を続ける竹中直人さん。今回は、人との別れに向き合う中での想いや母との記憶、悲しみとの付き合い方、そしてこれからの生き方について語ってくれました。

悲しみに向き合う意識はない

——70歳を迎えて、ご自身ではどのように感じていますか?

65歳を過ぎてからかな。自分はどんな死に方をするんだろうと考えるようになったのは……。人の死を見送ることが多くなるのは切ないです。好きな人が死ぬなんて思ってないですからね。

憧れの存在だった、つげ義春さんの訃報を受けた時は、母を亡くした時と同じくらい、泣いちゃいました。泣いたってもうその人は帰って来ないのに泣きますね。

——葬儀に参列する機会も増えてきたかと思います。

ぼくが葬儀に立ち会う時は故人のお顔をもちろん見に行きます。これまで親しかった方々で、やせこけたお姿になった方々もいましたが、生前と何も変わらずの方々もいました。亡くなったばかりの忌野清志郎さん、映画監督の石井隆さんなんて、まるでただ眠っているようでした。

葬儀で印象に残っているのは、蛭子能収さんと一緒にあるお方の葬儀に参列したときです。蛭子さんが、なぜかずっと笑っているんですよ。
「なんかね、ぼく、こう言う場はなぜか笑っちゃうんですよ〜」って言っていました。

いろんな方がいますね。葬儀の時にみんなが深刻な顔をしてるのを見て笑ってしまう……という声は何度か聞いたことがあります。その感じは分かりますが、ぼくは笑っちゃうことはないな。やっぱり悲しいし。

——悲しみや苦しみに、どのように向き合ってきましたか?

どうやって向き合うか……そんな風に考えたことはないかな。その瞬間の心の状態が、悲しみや苦しみを感じているだけですから。喪失感ですね。ただただ悲しいだけです。ただただ涙が流れて。向き合うという意識じゃないですね。でも死をより身近に感じてしまうのは確かな気持ちです。

自分はいったいどんな死に方をするのだろう……。ぼくがもし死んだらお葬式は絶対身内だけで静かにそっとやりたいな……と心のどこかで思います。いつかはみんなみんな、いなくなっちゃう。でも、ずっと沈んでいる訳にもいかないですからね。生きるエネルギー、生命力を失わなければ大丈夫だと思います。

正面を向く竹中直人さん

そばにいてくれたんだ

——お母さまとの別れについて、聞かせてください。

母は結核とリウマチを患っていて、ずっと隔離病棟に入っていました。当時、結核は人にうつると考えられていたので、お見舞いに行っても、「移るから早く帰りなさい」とすぐに5人部屋の病室から追い出されました(笑)。母の病室は廊下の一番突き当たりにあって、別れる時は曲がり角で泣いてばかり。ずっと母と手を振り合ってました。

結局、病気は治らず、母は家に戻ってきました。部屋のドアを閉め切って毎日、咳やリウマチの痛みで苦しそうでしたが、ぼくは母が死ぬなんて思ってもいませんでした。でも、母は自分の最期がわかっていたのかもしれません。亡くなるその日、何度もぼくのことを寝室に呼ぶんです。

——その当時、どのような思いで過ごされていたのでしょうか?

母が亡くなった時はとてつもなくつらかったです。床に倒れてる母がまばたきをしないことが一番怖かった。体が冷たくなっていく感覚も覚えています。母がいなくなったベッドを片付けていたら、その下にたくさんの薬が隠してありました。病院から出された薬を一切飲んでいなかったんですね。

よく泣きました。かなしくて苦しくて毎日泣いていたから、目が腫れてね。なんか、すべて失っちゃったような気持ちでした。もう立ち直れないだろうっていうくらいに。母の匂いや、あのとき母はこんなこと言ってたなとか、仕事を終えてバスで帰ってくる母の姿とか、台所の後ろ姿とかいろんなことを思い出してボロボロ泣きました。

——悲しみが癒えていくという感覚はありましたか?

自分は生きているから日々を生きるしかない。でも母が死んだという悲しみはずっと抜けなかったです。でもいくら泣いたって母はもう帰ってこない。それに「直人ちゃんがあまり泣いてばかりいると、お母さんが天国に行けなくなっちゃうよ」と誰かが言ってた。でも一日、一日を生きることが苦しくせつなかったです。

母の三十三回忌の時だったかな、お寺のご住職が、「直人さんのお母さんは、33年間、ずっと直人さんのそばにいたんだよ。33年が経って、ようやく月に帰っていったんだ」と話してくれた時は、とめどなく涙がこぼれました。そうだったんだ……。母は33年間もずっとそばにいてくれたんだって。

腕を組む竹中直人さん

“笑いながら怒る人”

——70歳を迎えて、挑戦したいことはありますか?

また映画を撮りたいです。次は俳人・種田山頭火を映画にしたいと思っています。
「分け入っても 分け入っても 青い山」という山頭火の句がすごく綺麗だなと思ってね。その句をそのままタイトルにしたいです。

いつも映画は直感で決めています。直感が鈍っちゃったら、監督も、芝居も、何もできなくなってしまうでしょうね……。

——共演された方で、印象に残っている方はいますか?

たくさんたくさんいますが……今、ふっと岸田今日子さんが浮かびました。岸田さんと舞台で共演したときの事が深く印象に残っています。自分の舞台に岸田さんをお誘いしたことがあるのですが、岸田さん、本番の1週間前になっても台詞をしっかりと覚えないんです。まさかそんな! って思うでしょう? 本当ですよ。このお話は(笑)。

……焦ったぼくは「岸田さん、あと7日で幕が開いちゃいますよ。セリフ……覚えてください。お願いしますね」と思い切って言いました。すると岸田さんは
「ごめんなさい。毎日、稽古稽古で、もう家に帰ってお風呂に入ったら、バタンキューですぐに寝ちゃうの。でも、今日の夜からはベッドに入ってもちゃんと台本を読むようにするわ。おつかれさま」
「岸田さん、お願いしますね。おつかれさまでした」
稽古場を去る岸田さんの後ろ姿を見送った後、ふと稽古場の机を見ると……「あれ? この台本、誰の? 岸田さんのじゃないかっ!」って。もう最高でしょう(笑)。

岸田さんのお別れ会の時に、同じ劇団の塩見三省さんから、「竹中、岸田さんにうるさかったんだって? 稽古場で台詞を何度も違う、違うって。『あんなこと言われたの、初めてだ』って楽しそうに話してたよ」って言われました。なんかその塩見さんの言葉がうれしかったです。

「みんな、岸田さんには言えないよ。台詞が違っていても……」って。あの“岸田今日子”ですからね。俺もよく言ったなと思います。ただ、岩松了という僕の大好きな演出家の脚本だったので、台詞を一語一句間違えないでほしいという思いが確かにありました。

——岸田今日子さんのお芝居はいかがでしたか?

もう最高でした。親子役だったんですがぼくの台詞があるのに、平気でそのセリフをとばして自分のセリフ言いますからね(笑)。岸田さんが台詞をとばすたびに岸田さんの楽屋に行きました。「岸田さん、また俺のセリフ食った!岸田さんのセリフの前にぼくのセリフがあるじゃん」って。

でも岸田さん全然気付いてなくて「あら、そうだっけ??ごめんね。気をつけるわ」ってめちゃくちゃチャーミングに言うんです。「岸田さん、お願いしますね」ってぼくが岸田さんの楽屋を出ていくと「いちいちうるさいわねぇ。細かいのよ」って言ってたみたいです(笑)。

岸田さんがどんなに台詞を間違えたって関係ない。舞台に現れた瞬間に全てをさらってゆく女優でしたからね。「うわぁ〜岸田今日子だ」って。そんな人には敵わない。岸田今日子さんがぼくと一緒にお芝居をやってくださったなんて今でも夢のようです……。

——今後、後輩への演技指導などは考えていますか?

ぼくなんかが、お芝居の指導なんてできないですよ。それにぼくは若い頃から演技指導なんて受けたことないんです。五社英雄監督は「ようござんすよ。ようござんすよ。アニキさんのまんまでようござんす」でした。演出家の蜷川幸雄さんには「竹中の好きなようにやって」と言われたんです。信じられないでしょ。周防正行監督にはなんと、「竹中直人にやりすぎはない」とまで。

そして、新藤兼人監督は「竹中君でね。向上心のない男をやりたいんだよ」と言ってくれました。その言葉は本当にうれしいお言葉でした。新藤監督は撮影がうまくいくと僕にばっちりマークを手で作って「うまくいきました」って言うんです。その言葉がたまらなかったな……。

演技指導されたことがないってのもなんだかひどい話ですね。若い頃からベテランだったのかよって。そんなことはないですが、本当に信じられないことです。

——現場での立ち振る舞いで意識していることはありますか?

先日、ドラマ現場のクランクアップ時に、挨拶をわざとベテラン風に声色を変えてやったんです。共演者には「わざと長い挨拶をするから、途中で『ナゲーよ!』ってツッコんでね」と言って。でも、誰もツッコまなくて……。そのまま続けちゃって、本当にベテランの挨拶になっちゃいました。もう最低です。

わざと長く話しても、受け入れられてしまう。めんどくさいと思っていても、そういう顔ができない。みんな、笑いながら怒ってたと思いますよ。「話しナゲーよジジイ!」って。そう考えると、〝笑いながら怒る人〟は秀逸なギャグだったと、今はしみじみと思います。

現場に若手やベテランは関係ないと思っています。やはり人との出会いは若いも年寄りも関係なく尊敬から始まるはず。だから、上からものを言う人や説教する大人にはなりたくないです。もちろん、挨拶が長い人も……(笑)。でも、それが受け入れられるようになってしまった。それはぼくにとってはベテランの証ではなく、〈高齢者の証〉ですね(笑)。

話す竹中直人さん

——これから先、どのように生きていきたいと考えていますか?

ずっと変わらないです。自分が何者かなどいまだに分からない。ただ生きてきてしまいました。でも大好きな舞台や音楽も続けられているし、偉そうに個展なんてのも定期的にやったりしています。監督映画も34歳で初監督した『無能の人』('91)で終わりだろうと思っていたけれど、自分の企画も含めて11本は監督したんじゃないかな。数の問題じゃないですが(笑)。

アルバムも9枚も出しているんですよ。9枚目はなんと!玉置浩二プロデュース、全曲玉置浩二作曲、作詞、ヴォーカルはぼくです。『ママとカントリービール』ってアルバム。誰も知らないと思いますが……(笑)。知る人ぞ知るって結構好きな感じです。

これから先、あと何年生きられるか分かりませんが、何かを作りたいという〈欲〉がなくなっちゃうと生きている意味もなくなっちゃうから70歳のジジイですが、〈欲〉は大事にして何とか生きている限り、生き抜きたいと思っています……。

【プロフィール】

竹中直人(たけなか・なおと)
俳優。映画監督。コメディアン。歌手。神奈川県出身。劇団青年座時代の1983年、テレビ朝日の『ザ・テレビ演芸』でデビューし、コメディアンとして注目を集める。その後、俳優としても活動の幅を広げ、1996年にはNHK大河ドラマ『秀吉』で主演を務め、高い評価を得る。映画監督としても『無能の人』などの作品で国内外から高い評価を受けている。

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