東京博善について

about

東京博善株式会社の設立前の歴史をご紹介しています。

1)江戸時代初期

幕府は寛永14年(1637年)に起こった島原の乱を契機として、 キリスト教を一掃するため禁教令という宗教政策と、寺請制度と言われる住民管理制度を始めた。
寺請制度とは、寺院が檀家の戸籍を把握し、墓地を管理したり火葬を行ったりするもので、これに加え庶民の末端組織として制度化された五人組により、葬儀、火葬を庶民が自主的に行うことが一般的となった。

2)江戸時代中期~後期

「江戸の五三昧」
江戸時代中期になると、火葬は大きく小塚原町火葬地、代々木村火屋、上落合法界寺、桐ヶ谷村霊源寺内荼毘所、砂村新田阿弥陀堂荼毘所の5ヶ所に集約される。※諸説あり
火葬場が集められた理由については、火葬場により諸説あるが、火を使うことから防災の観点から集約された可能性が高い。

「小塚原火葬地」
寛永年間(1624‐1645年)、浅草下谷周辺に19カ所の火葬寺があったが、火葬の煙や臭いが将軍家菩提寺の寛永寺へ及ぶことを懸念し、将軍の命により小塚原に移転させたことが始まりとされる。
その後、明治に入り旧東京博善の日暮里火葬場と合併し町屋日暮里斎場(現在の町屋斎場)となった。

「代々木村火屋」
文禄年(1593–1596年) 、四谷千日谷にあった火屋(火葬場)が千駄ヶ谷村に移り、寛文4年に代々木村狼谷に移転。四ツ谷西念寺、勝典寺、戒行寺、麹町栖岸院、必法院等五ヶ寺の荼昆所となったことが始まりとされる。広さ9百坪で火葬に従事した者の家が3軒あったことが江戸幕府の直轄教学機関である昌平坂学問所が編纂した郷土史「新編武蔵屏風土記稿」に記録されている。その後、明治に入り個人で経営していたが、明治26年に旧東京博善に譲渡され現在の代々幡斎場となった。

「上落合村法界寺」
東京都新宿区市谷薬王寺町の蓮秀寺の末寺、無縁山法界寺に荼毘所があったことが始まりとされる。蓮秀寺は現存するが法界寺はすでに廃寺となっており、成立についての伝承は残されていない。徳川御三卿の清水家の御用人、村尾正靖が書いた江戸近郊の旅行記 「嘉陵紀行」に、法界寺は外から目隠しの垣根で囲まれ中を見ることはできず、入口は2か所あり「焼場法界寺」の榜示があったことが記載されている。民俗学者の福田アジオ氏によると、法界寺は寺院としての形式を取ってはいたが村内には檀家はなく、死者を火葬するためだけの存在であったとされている。明治維新を経て明治26年に旧東京博善の傘下となり現在の落合斎場となった。

「桐ヶ谷村霊源寺内荼毘所」
桐ヶ谷斎場の門前に現存する霊源寺の荼毘所として4代将軍家綱の治世に発足したのが始まりとされる。
新編武蔵風上記稿(前述)には、境内三千五百三十八坪、村の東相州街道の中にあり、浄土宗江戸三田長松寺末諸宗山無常院と号すとの記録がある。 その後、明治18年に火葬場は寺と分離されて、福永幸兵衛など十名の匿名組合の経営に委ねられ法行合名会社となった。その後、大正7年に博善株式会社の経営となり、昭和4年、現在の東京博善に併合されて現在に至っている。

「砂村新田阿弥陀堂荼毘所」
砂村(現在の江東区)の十間川と小名木川の間にある岩井橋付近に存在した砂村新田の阿弥陀堂、極楽寺の荼毘所として発足したのが始まりとされる。江戸中期の俳人菊岡沾凉著の「江戸砂子」には、「隠坊堀、炮烙新田、火屋あるゆへに俗に呼ぶ名也。又やきば堀とも」との記載があり「砂村の隠坊(おんぼう)」と呼ばれるようになった。後に四谷怪談第三幕「隠亡堀の場」の舞台となった場所である。
その後、詳細は不明であるが、明治に入り砂村萩新田に移り、明治26年に旧東京博善の傘下となり現東京博善に引き継がれた。
なお、同じく明治26年に旧東京博善の傘下となった亀戸火葬場は、もと深川の古刹浄心寺の荼毘所として発足し亀戸に移転した火葬場であるが、明治27年に砂村火葬場と合併、砂町葬祭場(砂村亀戸)となったが、昭和40年に廃止となった。

2)明治期の歴史

明治20年6月 旧東京博善株式会社創設
日暮里火葬場が設立され稼働が開始された。創設者木村荘平は、当時日本最大の牛鍋チェーン店「いろは」の経営者として成功を収めた元薩摩藩御用商人である。
・初代社長 木村荘平
・資本金 31万5千円
日暮里火葬場は、当時としてはめずらしい赤煉瓦の火葬炉と、天を突く煙突を備えた西洋風建築の火葬場であった。
当時の柩は座棺が主で、はじめ寝棺の火葬炉を開発し営業を行ったが利用者が無く、創業者本人木村荘平が初の利用者となったという史実が残されている。なお、このことは劇作家小幡欣治氏の手により、「あかさたな」という演目で昭和50年代に芸術座で上演をされている。(劇中で主人公は大正10年6月没となっているが、木村荘平社長の正確な死亡年月は不明である)。
なお、日暮里火葬場は、江戸時代に浅草、下谷辺の寺院20余ヶ寺が各々龕堂(火屋又は荼毘所)を有し火葬を行っていたが、4代将軍家綱の時代(1669)に小塚原に集約。新たに火葬寺として19ケ寺が建立されたものが、明治10年に小塚原共同火葬場となり、その後、明治20年4月に日暮里に移ったものである。

明治22年5月 現町屋斎場に火葬場が新設
明治政府の市区改正によって町屋村が三河島村に合併された時、直ちに元町屋村(現在の町屋斎場の場所)に旧東京博善とは別会社による火葬場が新設された。
なお、当時の名称三河島村町屋火葬場は俗称で、会社名も含めて正式名称は不明である。会社の資本金は4万円、一株25円、1200株であったという。

明治26年 火葬場5ヶ所の合併
「砂村」 「亀戸」 「代々木」 「落合」 「三河島村町屋」の火葬場が旧東京博善株式会社に合併され傘下となり、旧東京博善株式会社は「日暮里火葬場」と合わせ6ヵ所の火葬場を経営することとなった。
「砂村火葬場」
元十間川と小名木川の間にある川に架した岩井橋の附近にあったが、いつの頃からか砂村萩新田に移り、明治26年に旧東京博善株式会社に引き継がれた。
「亀戸火葬場」
元深川の古刹浄心寺の荼毘所であったが、いつの頃からか亀戸に移り、明治26年に旧東京博善株式会社に合併された。 明治37年に砂村火葬場の境内に移った時をもって、事実上廃された。
「代々木火葬場(代々幡)」
以前は千駄ヶ谷村にあり、更にその前には、四ツ谷十日谷にあったが 4代将軍家綱の時代(1664)に四ツ谷西念寺、勝典寺、戒行寺、麹町栖岸院、必法院等5ケ寺の荼毘所として現在の代々幡斎場の場所(当時狼谷といわれた広さ900坪、家が3件あった)に設けられた。
明治になって、個人で経営していたが、明治26年旧東京博善株式会社が譲り受けた。
「落合火葬場」
新宿区市ヶ谷薬王寺町にある日蓮宗蓮秀寺の末寺無縁山法界寺(現在廃寺)の荼毘所として、4代将軍家綱の時代(1651-1679)に上落合に発足し、現在に至ったと考えられる。なお、夏目漱石の小説「彼岸過迄」の中に落合火葬場を描いた一節があり、漱石自身が明治45年頃落合へ来て見聞きし、火葬場の実際を小説の場面に登場させたものと思われる。

明治30年 「伝染病予防法」制定
伝染病による死者の火葬を義務づける。

明治37年 日暮里火葬場廃止し町屋に合併
亀戸火葬場廃止し砂村に合併

火葬場としての指定を受けていなかった「日暮里火葬場」(火葬場の跡地は現在の西日暮里一丁目に現存する)が、三河島村町屋火葬場の隣地に移転を命じられたが移転と同時に廃止された。しかし三河島村町屋火葬場の名称は昭和20年頃まで「町屋日暮里火葬場」と称されていた。また、同じく指定を受けていなかった亀戸火葬場(総武線の開通によってその敷地が鉄道用地となり、跡地は現在の亀戸駅構内となっている)も砂村火葬場の境内に移転し「砂村亀戸火葬場」(砂町火葬場昭和40年廃止)と昭和20年頃まで併称された。

3)大正期の歴史

大正10年4月27日 旧東京博善株式会社解散、
同日 現東京博善株式会社設立

営業権、設備一切を譲渡されて、同日現在の東京博善株式会社が発足。傘下に「日暮里町屋」(町屋)、「砂村亀戸」(砂町)、「代々 木」(代々幡)、「落合」の4箇所の火葬場を経営する。